そいつの数だけ世界はある。

世界の中に僕たちが在るのではなく、僕たち一人一人の中にそれぞれの世界がある。ってのはどうだ?

またいきなり何の話だ、って感じだよね。

うん、僕もそう思う。

ふと思ったのだけれど、

他人の痛みがわかる様になろうったってそんなの無理じゃね?

そもそもの痛みの物差しって何だろうか。

コレはきっとそれぞれに差があるものだと思っている。

猫が死んだ時だってそうだ。
車にはねられて痛いのはわかるが、その痛みはどんなものだろうか僕にはわからなかった。

結果として死んじまったんだからそれはそれは想像を絶する痛みだったんだろうけれど、僕は痛がってる猫を見ても胸が苦しくなるばかりでその痛み自体はどう頑張ったって想像することしかできないし変わってやれないので体感なんてできない。

きっとつまりみんなそれぞれの脳で見て聞いて触って体感しているモノの総合がその人にとってのまぎれもない世界だ。

猫にとっての世界があって僕にとっての世界があって、たまたま交差していてそれぞれの世界は一緒の時間軸を過ごしていた。

ある日世界の中で車にはねられて猫が死んだ「終わった」ではなく
ある日猫は車にはねられてその猫の世界はそこで終わった「死んだ」
ってのはどうだ?

僕にとっての世界で交差していた一匹の猫の世界が終わっただけで、僕にとっての世界はまだまだ続く。

とうとう頭いかれちまったと思ったかい?
大丈夫、僕もそう思うよ。

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